Saturday 28 January 2017

なぜ日本での人権や民主主義を巡る議論が実を結ばないのか - 所感 

理由は簡単です.ユダヤキリスト教文化圏ではないからです.

別の言い方をすれば,日本の精神風土では西洋的人権の前提となっている人間の絶対的な価値という概念が存在していないからです.この概念は,ユダヤ教,キリスト教,そしてイスラム教のように,神と人間が絶対的に異なる存在であるという前提思想の上に成り立っているものです.すなわち前者はこの世の森羅万象の創造主,人間は被造物の一種です.しかし,同時に人間は他の被造物とは絶対的に異なる価値と役割を持った存在であり,後者に対し,管理者,保護者としての役目も担っています.

日本では,神と人間との間にこのような本質的な違いはありません.物品に憑依するつくも神にせよ,なまはげにせよ,あるいはよりポピュラーな,節分(2月のみならず全ての節分)毎に現れる鬼でさえも人間の霊魂,より正確に言えば祖霊がある変化を経たものに過ぎません.そして,特定の人間は神になります.怨念を抱いて亡くなったり(例えば,菅原道真公や崇徳院のような方々),あるいは偉業を成し遂げた人間たちが神格化される人間の候補です.現代では,宇宙飛行士やノーベル賞受賞者などが実質的にそれらに含まれています.もちろん,相撲の横綱も.

翻って言うなら,人間と物品の間に存在論的に視て本質的な違いは無いのです.つまり,人間も物品と同じ程度の価値しか持っていない存在と認識されてしまうのです.(砕石や石炭と同じような扱いを受ける首都圏の満員電車にとどまらず,その例はいくらでも挙げることができます.また,その中の乗客にとって他者は物品にしか過ぎません.車内や公衆の場で化粧をする女性等もその良い例です.周囲の人間は無生物のため,彼女達は臆せず,かつ憚らずに好きなことをします.)

日本の報道の前提となっている,所詮,人間は金と異性への欲求の充足のみを求める動物に過ぎないという極めて単純且つお粗末極まりない人間観が形成されたのも,上述した理由によるものです.

戦争に負けて,アメリカから形だけの民主主義をおしつけられたわけですが,少なくとも四書五経,つまり徳川政権のイデオロギーを支えた朱子学等の宋学の学習が必須だった武士たちのほうが余程健全で高尚な人間観,世界観を身につけていたことでしょう.

ヨーロッパのアウシュビッツに代表される過去の悲劇を忘れない努力,世界で起こっている人権侵害を注視する姿勢,それらの起源もやはり上述したものです.加えて言えば,ナチスがユダヤ人や他の特定の人々を虐殺するには,上述した人間と言うカテゴリーから別のカテゴリーに概念上移動させることが必要だったので,それが為されました.アメリカが日本に原爆を投下する際もそうした日本人を人間というカテゴリーから外す概念上の操作が必要でした.(残念なことに,少なくともドイツでそうした操作にひとつの根拠を与えたのが宗教改革者ルターの言動でした.そして,ヒトラーが『我が闘争』の中で行ったことも同じです.) しかし,日本ではそのようなものは必要ないのです.

また,日本の司法は人が亡くならない限り,国民を保護する為に積極的な行動を採りませんが,これも,平たく言えば,人が死ねば祟るという日本人共通の御霊信仰を無意識下に抱いているからにすぎません.

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